友中資料室
唯信寺の学童疎開記念樹
宍戸小学校へ学童疎開していた関係者の記念樹が唯信寺に
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唯信寺に学童疎開していた当時の児童が60代を目前にして植えた記念樹 | |
太平洋戦争の戦況が日本に不利になり、1942(昭和17)年4月、東京が初めてアメリカ軍の空襲を受けました。1944(昭和19)年6月から、政府の施策により学童の集団疎開が計画されるようになり、笠間市内のいくつかの寺院も学童疎開を受け入れました。東京都墨田区立第一寺島国民学校からは、宍戸町の唯信寺・養福寺へ123名の学童が疎開してきました。児童はそれぞれのお寺に寝泊まりしながら、午後、宍戸国民学校に通って授業を受けました。午前は地元の宍戸国民学校の児童が授業を受けました。 ところが、東京の小学生の命をあずかっていた唯信寺が、なんとアメリカ軍機と筑波海軍航空隊のゼロ戦との攻防戦の結果、全焼してしまったのです。宍戸にお寺は多いですが、戦争で焼けてしまったのは唯信寺だけです。 宍戸小学校・唯信寺への学童疎開については、笠間の歴史探訪vol.25「学童疎開を伝える標柱と記念植樹のコウヤマキ」を御覧ください。 また、戦争中、唯信寺が全焼した話については、「常陽藝文」2008/1月号に詳しいです。(友部図書館で閲覧することができます)そこで南秀利先生が次のように解説しています。以下、解説に続く記事も併せて引用します。 「唯信寺の近隣地域といえる、常磐線友部駅の南方2kmほどのところ一現在、県立友部病院(現こころの医療センター)が建つ一帯に、筑波海軍航空隊がありました。アメリカ軍の艦載機がそこを狙ってやって来て、航空隊機との空中線になり、早朝でまだ暗かったので曳光弾(えいこうだん)を発射し、それが唯信寺本堂のカヤぶき屋根に落ちて燃え広がった、と伝えられています。昭和19年当時、当地方はまだ平穏でした。それが20年になって艦載機に狙われだしたのは、アメリカ軍が硫黄島を落とす前段階として、本土の各航空施設を攻撃し始めたため、と考えられます」 こうした空襲はその後もあって危険になったため、昭和25年5月、当地の第一寺島国民学校生は秋田県への再疎開を余儀なくされたという。 唯信寺は鎌倉時代前期、八田知家の三男、宍戸義治が出家し、親鸞の直弟子二十四輩二十二番の唯信となって開いた、と伝えられる。江戸時代後期には、当時の住職が宍戸藩主とはかり、天災や悪習などから荒廃した藩領の復興のため、北陸地方からの開拓民の受け入れに努めた、という歴史ある寺である。現在の本堂は空襲で焼失後の再建だが、空襲では貴重な寺宝をことごとく焼いてしまったという。現在の26代住職・宍戸将さんが語る。 「寺の宝物は焼失しましたが、これは、おあずかりしていた大事な学童たちの命を守るということに専念した結果であり、一人の負傷者を出すこともなく済んで、当時の寺の関係者は、ほっとしたことでしょう」 そんな寺での疎開生活を懐かしんで、かつての疎開児童たちが「一寺宍戸会」を結成し、今でも訪ねてくるという。境内に、そうした人たちが来訪記念植樹したコウヤマキが今、育っている。 ー以上 常陽藝文からー 唯信寺には、寺を全焼させた曳光弾の破片が今も保存されています。 参考文献:「友部町史」、「常陽藝文」2008/1月号
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